AKIRA@日記

ソーシャルワークが出来る人間を目指す大学生。

自分が切り捨てられるかもしれないという感覚は、恐怖しか感じない。

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 大学のテスト期間中に入り、なぜか掃除に目覚めています(笑)なんでだろう?

 

明日、大学のテストがあります。その中の問題で、2016年の7月に神奈川県相模原市で起きた障害者殺傷事件について、意見をまとめる問題が出ます。自分なりの回答はすでに出来上がっていますが、ブログでも自分の考えを少し書き残そうと思います。

 

 NHKEテレの「バリバラ」という番組は、この事件を大きな議題として取り扱いました。その放送の中で、ある大学生が容疑者の「障害者が両親の承諾を得れば安楽死が出来る世界にしたい」という意見に賛同をしていました。

 

この意見に対して、その大学生vs Mr.バリバラの玉木幸則さんが対談をしたのは記憶に新しいですね。様々な意見がぶつかりあったのですが、この対談は視聴者として食い入るように見ていました。 

 

皆さんはどのような意見をお持ちですか?

 その大学生は、重複障害者や知的障害者を”生産性”という視点を用いて、彼等は何も生み出す事が出来ないと批判をしていました。

 

確かに、知的障害者や重複障害者の方が労働の場において”生産性”を上げる事は難しいと思います。だからってじゃあその人達を切ってもいいの?という話になります。

 

そういう批判をしてしまう人は、自分がもし怪我を負って障害を負った時に”自分は切られてもいい”って言っているのと等しいんですよ。

 

この、自分が切り捨てられるっていう感覚は、平和な日本ではなかなか感じる事は出来ないと思います。でも、自分が切り捨てられるってめちゃくちゃ怖くない?

 

大事な事は、他者の気持ちを想像すること

 でも、その大学生の言い分も見ていて分かるんです。

確かに、僕達は何か”労働をする事”によって、社会から承認を得る事が出来ます。

 

「なんか言っていないで、まず働いてみてよ。それで君がどれだけの人間なのか見るからさ」こういって僕達は評価されていると思います。

 

 僕達はどれだけの事が出来るのかは消費活動ではなく、”労働の場”で見られています。

 

そして、社会に出たら自分の労働で、自分がどういった人間なのかを見せていく必要があります。その残した数字や結果で、判断をされるから。そして、僕はこの生産性という視点を入れてしまうのはしょうがないと思う。

 

その思考を持つのは悪い事ではないと思うんです。だって、その人はそういった生産性に重きを置いている価値観なんだから。

 

そこの価値観を批判するのではなく、そういった理由で切り捨てられる人の気持ちを考えようという事を玉木さんは伝えていました。

 

相手の立場を考えて、その人がどんな気持ちなのかを想像する事。

 

その大学生と玉木さんの対談も、最初は話が噛み合っていなかったんですが、段々とそれもうまく行くようになりました。それは、その大学生がその切り捨てるかもしれないという人の立場を考えるようになったから。

 

立場が違えば、解釈が変わるのは当たりまえです。大事な事は、自分と立場が違う人の気持ちを想像出来るかという事。

 

 

 

玉木さん自身も、自分も切り捨てられてしまうかもしれないという感覚を持っていると言います。でも、この切り捨てられてしまうかもしれないという感覚は、やっぱり怖いよ。

 

幼児は過去の自分であり、老人は未来の自分だ。

 幼児は過去の自分であり、老人は未来の自分だ。

 

もし、自分が急に怪我を負って、身体に障害を負ったらどうしますか?その時、”君は何も出来ないから”という理由で切り捨てられたいですか?この場合の切り捨てるって”死”とほぼ直結しますよね。

 

こういった事を平気で言ってしまえる世の中にはなってほしくない。

 本人が生きたいという意思があるならば、それは絶対に尊重しなければいけないと思う。

 

 

玉木さんは新聞内でこの様に述べています。

全ての人に役割があり、生きていてほしいと思える感情を育まないといけない。

 

 

さて、明日のテスト頑張ろう!