現実か虚構か。羽田圭介氏の【成功者K】の読み応えが凄い。
こんなに読み応えがある作品は久しぶり。
【成功者K】はこう形容するしか言葉が思いつきません。それぐらい、ページをめくる手が止まりませんでした。今日は、この作品について感想を書きます。
現実か虚構か。その境目が分からなくなる。
小説を読むことの1番の楽しさは、「他人になれる事」だと思う。
小説という仮想空間内で、その主人公と一体化し、様々な経験をする。あまりにも無理な設定でも、主人公というキャラクターに成り切り、その物語を体験する事が出来る。そこが小説の楽しさだ。
しかし、この【成功者K】は仮想空間ではなく、限りなく現実に近い。
羽田圭介氏自身に成り切り、彼が体験してきた事を追従する事が出来るのだ。
僕はこの作品を読む前に、「文學界」という本を購入した。なぜ、この本を買ったのかというと、羽田圭介氏と村田沙耶香氏の対談形式のインタビューが掲載されていたからだ。そして、このインタビューで羽田氏が話していた内容と、成功者Kが思考している内容がリンクしたのだ。
その瞬間、僕はすごく混同してしまった。
あれ、これはどこまでが本当なのだろうか?嘘か本当の境目が分からなくなってしまった。例えば、文學界で羽田氏がテレビについて話す場面がある。
最初のほうでオンエアされた番組のキャラを起点にして進めていくの。
その前段階にある素人の僕ではなくて、テレビで一度キャラ付けされた僕をそのまま使うっていう感じ。だから、僕に求めてるものの範囲が狭くて、向こうの作る台本にきっちり収まるような発言をしない限り収録が終わらない。
検察の誘導尋問みたいな感じなんだよ。
P51 私たちが受賞で得たもの
インタビューを初めて読んだ時 、検察の誘導尋問みたいな感じなんだよ。というフレーズがすごく頭に残っていた。テレビでは、自分の思ったままの事を言っても、その尺に収まるような形にしないと収録が終わらないのだなと思うと、なんて無力なんだと感じた事を思い出す。
この作品はフィクションか?その境目が分からなくなった理由として、成功者Kを読み進めると、まるで検察の誘導尋問みたいという言葉が出て来るのだ。
村田氏との対談で話した内容と、成功者Kが感じた思考がリンクしている。
その事実が、虚構という壁を破壊して、グレーであった部分を限りなく透明に、クリアにしてしまう。
実際に村田氏との対談で、成功者Kは約2ヶ月で執筆したと話していた。そして、物語内でもしっかりと2ヶ月で書いているのだ。これも繋がっている。
現実の対談で話した内容が、成功者Kという物語内でもその言葉通り体現されているので、より一層真実度が増す。羽田圭介氏の対談を読み、羽田圭介氏のテレビを今までよく見てきた人ほど、この話が虚構ではなく現実だと思わせる仕組みになっている。
果たして、成功者Kは幸せなのか?
成功者Kは芥川賞を受賞してから、様々な女性と性交を始める。
この性交を描く場面が、リアリティを感じてすごく良い。現実感を感じさせるのは、しっかりと日常を描いているからだ。テレビ局でいつも2,3個置いてある弁当を全て食べてしまう場面や、成功者Kの目線から繰り出される、身体感に基づく叙述。僕は羽田氏のこの部分が好きだ。
羽田圭介氏が芥川賞を受賞した【スクラップ・アンド・ビルド】では、主人公が自慰行為にふける場面が何度も展開される。まさか、自慰行為をこんなに丁寧に描くのにも驚いた。老いた祖父のやせ細った身体と自分の屈強な身体を比較し、自分のたくましさを表現するなど、羽田氏は身体やその感覚を丁寧に描く。
そして、物語の進行と共に、以前感じていた身体感覚が時の経過に伴って段々と変化していく所を、身を持って体感させてくれるのだ。
成功を手にしてから、ファンにすぐ手に出す様になった成功者Kに対しては、節操が無いなと感じたりもした。しかし、時に人間は欲の塊になる。仮に自分も成功を手にしたら、成功者Kと同じ行動を取ってしまうかもしれない。そう考えると、人間の欲にぶつかる作品なので、何度も読み返したいとは思わない。でもその分、濃密度が凄い。
だが、なぜこの作品はこんなにも読み応えがあったのだろうか?
前述した対談から、村田氏の言葉を引用する。
すごく信頼している方で、書く上でとてもお世話になっている人がいるんだけれども、その人に「このままだとちゃんと読んでもらえない作家になるよ」って言われて……。
クレイジーな人がクレイジーなものを書いてる、それはすごく安全な場所から眺めることだから、安全な読み方しかされなくなる。自分に引き寄せてこの問題をちゃんと考えてくれる読者がいなくなってしまうって。
そういうふうな形でテレビに出て、読まれない作家として、ただのキャラクターとして使い捨てられていくことは作家としてすごく危険なことだから、もうバラエティには一切でないほうがいいよっていうことを懇々と諭されて。おっしゃるとおりだって思ったの。
P45 私たちが受賞で得たもの
クレイジーな人がクレイジーなものを書いている。
その様に認識される事は、危険な兆候なのかもしれない。
設定があまりにもぶっ飛んでいたり、作者がクレイジーな人だと認識されていたら、出来上がった作品は、読者としてはただ面白い読み物として消化されてしまうだけだろう。
だからこそ大事な事は、作品を読みながら、どれだけ自分の事として引き寄せられるかだ。
羽田圭介氏がテレビに多く露出を増やす事によって、周りから認知されていくと同時に、羽田圭介という人はどんな人なのかと興味が湧いた人は多いと察する。
村田氏が危惧した様に、テレビを見て初めて羽田氏を知った人からすれば、ここでいう”安全な読まれ方”しかされていないかもしれない。でも、羽田氏の著作をしっかりと読んでいる人ならば、自分の問題として捉えながら読書する。
その時に、この作品は計り知れない物を生み出したと思う。つまり、成功を手にした者の人生の変化である。実際に成功者Kに成り切って、成功者Kの人生の変化を自分の問題として捉えた時、僕自身羨ましさを感じたと同時に、幸せで満ち足りた状態かと言えば、そうではない。でも、羨ましいけどね。
ただ、辿り着いた者にしか見えない景色がある事も事実。
それを小説という形で、しかも成功者Kに成り切って体感出来るのは、やはり小説って素晴らしいなと思う。
小説を読む楽しさは、『他人になれる』こと。
— AKIRA ISHIZU (@azyara_usimitu) 2017年3月10日
限りなくノンフィクションの様な。ありのままに近い成功者Kに、小説内でなりきってみると面白いかもしれない。
あと、羽田さんは性描写や身体感覚を丁寧に描く所が好き。
文學界。村田さんと羽田さんの対談を読んでからだと、より一層面白いです! pic.twitter.com/kKqUjPIYkG